キングコング対ゴジラの調査

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キングコング対ゴジラの軽く調査した。

建物は壊す為に配置されていた。怪獣が動いたから結果として建物が壊れたのではなく、壊す絵が欲しくて壊しているように見える。戦う場所は山などの人の住んでいない場所。

怪獣は殆ど顔などクローズアップにならない。表情を見せたいときはバストショット程度のサイズになっている。口の開き方は板にヒンジを付けてパタパタと開閉するよう。

クランク的な形状にするとパタパタ開閉しなくなりリアルに見える。そもそも普通の骨格はこっちだと思うが。怪獣の目は動かない。尻尾は体の動きと無関係に動かしている。
怪獣はどのシーンもほぼ全身を入れる。本来なら身長が50メートルの物体を全身真正面から見ることが出来る状況はほぼ皆無で、出来たとしても怪獣と同じ目の高さでこのような状況はまれだと思う。既視感を作ることでミニチュアを実際にあるかのように見せるには無茶なアングルなのだが、60年代の東宝特撮を再現するには欠かせないと思われる。

怪獣のいるセットと前景にアクションのある人物の合成で、カラコレが出来ずに青みがかっている。怪獣と他の要素が絡むときはその前のシーンからセット+ミニチュア。列車が怪獣に壊されるシーンの前に列車が走るシーンがあれば、走るシーンもミニチュア。ってこと。モブシーンはロケ。広い絵のときのカメラポジションが高く、俯瞰している。
ドラマも含めてセットの撮影が多い。これは特撮に限らず、映画は会社の撮影スタジオで撮影することが前提だったんじゃないかと思う。取り立ててそこに意味は無くてね。映画を撮影するという事は自前のスタジオで撮影すると同義ってこと。
カットの切り替えのタイミングは今とあんまり変わらない。ドラマパートは軽い恋愛ものを入れている。続けてこの頃の東宝怪獣映画を見ると、作り手が怪獣から離れたいのかと思うくらい、物語に怪獣の必然性が無く怪獣とストーリーが分断されているように見える。怪獣を出しておけばあとはある程度自由に作れるような感じ。大映のガメラや大魔神は怪獣が物語と絡んでいる。怪獣を撮りたいために物語を作っている。
爆弾が爆発する音が高くて短い。音に関しては架空の音は工夫がみられるが、現実にある音はおざなりに感じた。音はステレオのLRを意識している。今でも新しい技術が登場するとそれを意識しすぎたことをするね。
登場キャラクターは善悪を問わず、全体的にまじめで学歴が高く、元々裕福な家庭環境で暮らしてきた人に感じる。役割が違うけど同じような生活環境にいる人たちに見えた。映画に関わる、特に作り手が裕福な人が多かったのだろう。今は独立系や異業種からの参入があるから映画に登場する人たちの人生に幅があると思った。つまり、作り手の経験や環境がそのまま映像やストーリーに反映されているんだね。
自衛官は司令長官(現場で指揮をする人)も含めてまじめで判断も的確。博士は慎重な判断をする。怪獣に対する結果は失敗ばかりだが、過程は清く正しい進行をする。失敗に対するリアクションが描かれる事は無い。女性が洋服で出かけるときは帽子を被っていることが多い。ファッションは結構頑張っていると思う。当時の風俗を積極的に取り入れている。中年以上の女性の衣装が和服。これは時代性。
ダメな博士(中年太り)と天才博士(しゅっとしている)。この対比はあんまり出てこない。登場するのは主に天才博士。
平田昭彦は不死身。何度も何度もゴジラシリーズに別の博士になって登場する。

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