何度目かではない、Jokerを見た。

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ジョーカー(原題/Joker)監督/トッド・フィリップス 2019年 アメリカ合衆国
JOKERはわかりやすい映画だ。何故ならばサブテキストになる映画がたくさんあるのでそれらを見、解説などを読めば初めて見ても理解出来るからだ。しかし、どのバットマン映画(アニメも含む)を見ていなくても話がわからないということはない。見ておいたほうがいいかもしれないが、そうなると70~80年代のアメリカ(NY)の社会情勢も知っておかないといけない。言い出すときりがない。それよりもほぼこの映画の下敷きになっているタクシードライバーとキング・オブ・コメディを見るだけでいい。それくらいこの二本が元になっている。キング・オブ・コメディに至ってはまるでこの映画のパート1のようだ。もう一本付け加えるならモダン・タイムスだ。キング・オブ・コメディの世界の中にタクシードライバーとして社会を彷徨うチャップリンがJokerだ。Vフォー・ヴェンデッタも見たことがあるなら楽しめるだろう。それくらいこの映画は様々な映画のオマージュを見ることができる。New York Timesではタクシードライバーとキング・オブ・コメディ露骨なマッシュアップとまで言われているね。あまりに端的な言葉だ。
ジョーカーはジョーカーの誕生、ビギンズナイトみたいな話ではあるが、これまでバットマンに出てきたジョーカーを期待するならダークナイトを見よう。こちらも期待するジョーカーとは全く違うがジョーカーらしさを最も表現していると思う。
他にも映画サイトなどで言及されている映画はいくつもあるが、言われていない中では北野武監督作品のソナチネまでの全部か、どれか一つでも見ておくといいのではないか。特に冒頭の子どもに襲撃されるのは、その男、凶暴につきを彷彿とさせる。

誰もアーサーを救えなかった。
そもそも救う気がない。カウンセリング担当もただ話を聞いているだけで、このカウンセリングの仕組みも機能していなかった。ゴッサムは財政難でこの社会福祉プログラムを終了してしまう。財政緊縮の一環でこの事業を止めることをトーマスウェインが提案したのかどうか不明だが、トーマスは劇中では金持ち優遇の政治家であるように描かれている。善意の市民派を自称していても内心は選民意識の強い議員などは実際にいる。多分トーマスも悪い議員ではないだろうが、失敗した政策が不遇の市民の大きな負担になったしまったのだろう。全周囲的に正しく清潔であることは難しい。
アーサーの母親は狂っている。
これは劇中中頃まで来ないとわからない。それは僕ら観客はアーサー親子のあまりの不遇に同情心があるからだ。先にこの二人はそもそもやばいことを予習していなければ、所謂可愛そうな人たちであり、無敵の人なのだ。それが徐々にこいつらやばいんじゃないか?と勘ぐりたくなってくる。現実にも上手くいっていない子どもにその分だけ超人的な能力を期待する親はいる。そうして精神が破綻していくのだ。こうなるとすべてを肯定する話しかできない。アーサー親子も同情したかったが、物語の進行と同時に疑惑が現実になり孤立していく。
アーサーは気に入らないやつは殺す。しかし、自発的な殺人でさえ、他人に翻弄されている。
そもそも殺意はあったとしても実行には移さなかった。底辺であっても自らの力で生きようとしていた。鶏ガラのように骨ばり、傷ついた背中で必死になって堅い革靴を広げている。あまりに寂しい状況の中で出来すぎた偶然のように銃を手に入れる。しかしアーサーは銃を拒否した。彼には正しい心があったのだ。

トーマスウェインはアーサーに殺されない。
アーサーはトーマスウェインに絶望しても殺さなかった。しかし、ピエロのメイクで射殺事件を起こしたことに触発されてピエロのお面をかぶったデモ活動をする誰だかわからない人に射殺された。
アーサーは殺すとき、観客が殺しても納得できてしまうときに殺している。
ダークナイトのジョーカーは多くの殺人に意味はなかった。この映画のジョーカーであるアーサーは観客がこれは殺すのではないかという見ている人の視点の動きがあるときに殺している。だから小人症のゲイリーは殺さなかった。
アーサーはジョーカーにはなれていない。
アーサーを乗せたパトカーがデモ活動員に乗っ取られた救急車にぶつけられたときにアーサーが死に、ジョーカーへ復活したのだろう、そこで初めて口に笑顔のメイクをする。格好としてはジョーカー誕生なんだけど、デモ隊にただ乗せられているだけにも見えるんだよね。デモ隊も自分たちの仲間の一人をパトカーから救出した程度に思っているんじゃないかな。それくらいTV局の外のデモは混沌としている。ここで悪のカリスマに覚醒!一気に形勢逆転!スカッとする物語の展開に、は、ならないのだった。
New York Times指摘されていたが、担当セラピスト、バスの中で出会う子供と母親、同じアパートで好きになるシングルマザー、アーカム・アサイラムで診察する精神科医、劇中、アーサーの気持ちの変化に付き合う人はほぼ黒人女性だ。アーカム・アサイラムで母親の資料を強奪する受付の人は黒人男性だった。これらはアーサーの白人至上主義からの転落で、白人ではない僕には実感できないけど、多分、アメリカでは印象的なのだろうか。
描かれる全ては日本で言うところの自己責任で、アーサーは社会から切り捨てられる存在。
アーサーに起きる出来事はいくつもの映画ですでにある事が多い。このすでにある転落する出来事をどういうことか人生を逆転できない人が実行する映画だ。twitterなどで自己責任と罵倒される人が主人公だ。無責任に社会的に抹殺された行き先がジョーカーなのだ。

全部ウソ。
映画の中で事実のようにアーサーの妄想が何度も登場する。特に隣の部屋のシングルマザーと付き合う件は長い長いアーサーの妄想だ。妄想であることは何度か種明かしをする。実はシングルマザーはここにはいないとか。しかし最後に「いいジョークを思いついた」と言ってしまうと、全てがアーサーの妄想だったことにも見える。
ただ、ウェブサイト、THE RIVERで監督の解釈によるとジョーカー(アーサー)は認知されなかった子どもであり、ウェイン家から何も得ることができなかった。それが憎しみのモチベーションとして説得力があるとしている。ということは、すべてが妄想とは言い切れない。見たままにわかりやすく妄想を明かしているシーン以外は現実だのだろう。
劇中に何度も登場する階段も気に留めておくとアーサーの心情がわかりやすい。一回だけ降りる。
この映画を象徴するように何度も長い階段が登場する。アーサーは常にこの階段を登る。そして続く坂道を降って部屋へ変える。辛いばかりの道のりだ。この映画は全く難解ではなく、反対にわかりやすい読み解きができるように作られているのではないか。
違っているかもしれないが、喫煙者はアーサーだけだ。現在の映画では喫煙者はルーザーや田舎者、無学などを表す事が多い。時代性の表現でもあるが、それはまれだろう。
架空の街の不明の時代が作品世界ではあるが、アメリカの今を描いているだろうし(70年代あたりのNYをモデルにしているのはわかっていますよ。)、世界的な社会の雰囲気や日本社会にも通じるものを描いている。端的に不安だ。
社会的に救われない人の現実を夢も希望もなく辛くて寂しく描いていて素晴らしい映画です。ということさえ嘘かもしれないのがJOKERだ。
それでもこの映画は喜劇だ。

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