ペンタゴンペーパーズ見た。

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ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書
原題/The Post
監督/スティーヴン・スピルバーグ
脚本/リズ・ハンナ、ジョシュ・シンガー
製作/エイミー・パスカル、スティーヴン・スピルバーグ、クリスティ・マコスコ・クリーガー
出演/メリル・ストリープ、トム・ハンクス 他。
製作国/アメリカ
公開年/2018年1月

面白かったとさっと出てこないのは難しい内容だったことと、事前に予習せずに思い付きで見に行ってしまったことだ。実話なのでペンタゴンペーパーズの顛末について知らないのは、ネタバレではなく知識が不足している恥ずかしい状態なのであった。この映画に限らないが予習は大切だ。この映画などは予備知識があると見える内容が全然違う。
実話である事と制作期間が短かった事もあり、時代背景など殆ど説明が無いので、いや、前半の眠ってしまったシーンや漠然と見てしまったシーンであったかもしれない、それでも予備知識がないと何故キャサリン・グラハムがここで決意するのか、とか、ワシントンポストがどういう位置づけの新聞なのか、ニューヨークタイムスとの関係など知っていないと対立するいけ好かない嫌な奴らに見える。
この頃、ポストはワシントンのローカル紙で、元々の所有者からユージン・メイヤーが買収し、その娘の夫のフィリップ・グレアムが社長になるが自殺してしまい、妻でありユージン・メイヤーの娘であるキャサリン・グラハムが後を継ぎ、史上初の女性新聞社社長になる。というのが作品世界。
比較的短期間で制作できたのはスピルバーグの早撮りも理由の一つ。テイクをあまり重ねず、殆どがワンテイクだったそう。主演の二人には演技指導をしていない。完成を急いだ理由は、今の大統領のトランプが特定の報道をフェイクニュースと呼んでメディアの信頼を失墜させる。そのフェイクニュース扱いに対する解毒剤と、マスコミに対する何に対して行動すべきか再考させるためなのだという。
文書が見つかってからの物語の進行のスピード感はこの前半の緩い語り口との対比でより強く感じる。
キャサリン・グラハムは新聞社の社長であるため登場するときは常に中心にいることが多く、キャラクターがはっきり見えるが、ベン・ブラッドリーは編集主幹なのにやや埋没した感じに見える。映画のキャラクターとしては自分で判断はしているが指示を出す立場なので行動している感覚が少ないのだ。そういう役割なので仕方ないんだけどこのせいもあって前半がもったりして見える。

実は前半はちょっと眠ってしまった。映画を見る前の移動で疲れていたことが一番の理由なので、自分の問題が大きいのだけど物語の進行がゆっくりであることと状況とキャラクターの説明がほとんど無いので凡兆に感じ、自然に目を閉じてしまった。で、もったりのおかげで後半の動きが鮮やかに見える。主演二人が判断し決断してからだ。
邦題はこの映画に的確じゃない。物語はペンタゴンペーパーズを手掛かりに進むが、言いたい事はこのペーパーの内容じゃない、ペンタゴンペーパーズに対するスクープをモチーフにした映画ならタイムズを舞台にしたほうが分かりやすい。わかりやすいとは見やすいとか理解しやすいとかそういうことだ。
しかし、ポストが舞台であるのは、スクープを取ったから俺たちすげー!じゃなく、これまで仕事をしたことのなかった人(女性だからではなく)が社会に関りを持つことの決断と言うには重すぎるが、何もしていない人が何かをやろうとするときは他人が小さいと思うことでも当事者には世界が変わるくらいの大きさだ。それを思い起こした。
また、政府が国民を欺くような事を隠そうとするときに報道に携わる人たちはどのように行動すべきかということ。だから、原題のThe Postのタイトルが重い。The Postはワシントンポストのことで、Theではあるが、出版自体を指していて出版とは何かを描いていると個人的には読んでいる。まぁ、単にワシントンポスト紙の転機ってことだろうが。なにせこの映画はアメリカのむけられたアメリカの映画なのだから。たまたま今の日本も政府とマスメディアの関係が似たような状況になっているので、映画全体として共感するところがある。個人的には新聞社付きの広告代理店や新聞社の仕事をしたこともあり、多少ながら新聞の在り方は身近に感じることもある。

新聞が原稿を書き印刷されるまでを機械の執拗なクローズアップで追及している。この絵は監督の趣味だよね。機械の面白さを見てしまったんだろうな。確かに文字組んで輪転機の動くさまは機械趣味には興味深いことだろう。他の人はどうか知らないが、自分が関わった紙面の校正をその場で印刷担当から受け取ると作った喜びより責任がずっしり感じる。作るとか報道するとかそういうのは責任ばっかり感じるなあ。完成して嬉しいとか悦に入るようなことは最初の仕事から全然ない。
電信の紙がめちゃくちゃ長いくて床を引きずってベンのところまで持っていくのが事の重大性とこうやらなくては持っていくことができない滑稽さが面白かった。これは電話でもあって、かなり内線を使った複数台(人)の会話が当たり前のようにあって、一般的な電話の認識とずいぶん違うだった。電気で動く穴みたいな感じ。電話と言いう意識はないんじゃないかなあ。自分が見たことのある新聞社でもそうで、あくまでも他人と話すための穴でしかない。だから電話っていう機械を操作してる感覚はない。多分内線から発達したからだと思う。
女性の社会進出はキャサリン・グラハムの行動より、ベンの娘のレモネード売りのシークエンスのほうが表現していると思った。表現としてね、そりゃキャサリンは新聞社の社長なので直接社会に出ているんだけど、わかりやすいのはベンの娘だと思った。最初は玄関先、次第に室内で記者たちが奔走する部屋へ近づいていく。値段は父親の助言を受け入れて値上げしている点も面白い。父親は娘にとって社会だ。必ずしも自分の意見だけで行動していない、したたかさを感じる。

これが報道できなければ報道の自由が奪われる。という切迫した状況はセリフとしては聞こえてくるが、映画の中の状況として実感できるかと言うとそうは思わなかった。これを報道すると自社や自らのジャーナリストとしての尊敬を得ることがセリフだけでも強調されているからだ。そこにあんまり社会性を感じられないんだよね。そうじゃないんだけど、やや上滑りしてる感じがする。尊敬されたい欲があるように見えて。実際に自由が奪われる演出が見えると実感できたんじゃないかなあ。凄く大切な映画と分かっていてもサクッと作った感じはやっぱりするし、スピルバーグの「この映画は私たちにとっての『ツイート』のようなものです」のコメントもなるほどと思う。自分の中で映像としても面白さが感じられないと思っているので、映画館じゃなくていいし、どうしても今見なければならない切迫した理由もないのですっきりした気持ちで見たい!と思えなかったんだよね。見たら見たでそれは考えることもあるけどさ。

あ、ラストが物語とは関係なく好き。映画の内容が実際の歴史へ続くような演出がよかった。

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