何度目かの、 座頭市海を渡るを見た。

座頭市海を渡る(英題/zatoichi’s pilgrimage 監督/池広一夫 1966年 日本)
第十四作目。船の中から始まる。海を渡るが瀬戸内海である。行先は外国じゃないよ。たどり着いた土地の人たちも海を生活の糧にしていてこれまでと違う生活をしている社会を前面に出している。
今回も切ろうとした男を瞬発的に切ってしまう。のちに分かるが、切ろうとした男はやくざに金で雇われたのだった。

za14021200

どういうことか馬と道中を共にする。馬に乗っているのではない、馬と共に歩くのだ。馬に連れられてついた家で女に切られる。無敵になりすぎた市は悩むことでキャラクターのバランスをとっているようだ。
女と市が池で泳ぐシーンは上手だなあと思った。上手とはエロ方面の絵にしていないってこと。スターウォーズのエピソード2でのアナキンとアミダラのデートシーンみたい。座頭市の方が圧倒的に先だけど僕が見たのはSW ep2が先なので。

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何度目かの、座頭市あばれ凧を見た。

座頭市あばれ凧 (英題/zatoichi`s flashing sword 監督/池広一夫 1964年 日本)
すっかりキャラクター化された座頭市で、ここで楽しむのは痛快ヒーローものだ。絵作りが当時の流行っぽい感じになっている。見せたいものを正面から撮るような。
髪の毛は五分刈りを放っておいたら伸びたような感じ。太ってきたのも何となく見てわかるくらいになっている。徐々に良くいわれる勝新の演じる座頭市の見た目が完成しつつあるといったようなものか。
行きずりの子どもに飴を買ってやるシーンは子供は一人だと思っていたら十人くらいいたというオチを子どもを全く見せずにすませ、そのあとに続く市が穴に落ちるシーンで子どもを全員見せているが、後半への布石なんだろうね。穴に落ちるシーンは雑なカット割りと演技でダメっぽい感じがする。なんでこんなのにしたんだろう。
水中戦の描き方が良かった。今ならもっと直接水の中の戦闘を描けるだろうが、そこをややファンタジックというか、カットを多めに割って何を見せたいか、ここでは市の無敵ぶりを描いている。
寡黙で影を背負った感じはどんどん消えていき、割としゃべり、説明的な傾向がある。皆の知る、こうあってほしい座頭市の姿と映画じゃないかと思った。そういうのがこの先も続く。
映画の最後は一件が片付いて女を置いてまたどこ多へ旅立つこれまでとは違い、敵を倒したところで幕になっている。凄惨さが出てこれもいいなと思いました。

zatouichi07011200

何度目かの、座頭市千両首を見た。

座頭市千両首(英題/zatoichi_and the chest of gold 監督/池広一夫 1964年 日本) 
座頭市シリーズ第六作。これまでとは全く違う作風だ。演劇的なオープニングから、東映の時代劇のような雰囲気のカメラアングルやカット割りだ。話はこれまでと同じく、立ち寄った町で騒動に巻き込まれやくざとの抗争に関わることになる。ヒロインが登場するが徐々に出てくるだけのようになってるね。そのヒロインは三作目の新・座頭市と同じ坪内ミキ子だ。シリーズ作で同じ役者が違う役を演じることはこの頃は気にしていないようで、敵役も続・座頭市物語で市の兄を演じた城健三朗(若山富三郎)だ。実際にも勝新の兄で、役回りとしては重要ではないかと思うんだけど、あっさり普通の殺し屋として出演している。
この映画から市の仕込み杖がルパン三世にでてくる石川五右衛門の斬鉄剣のように何でも切れるようになってくる。斬鉄剣とは方向性が反対であちらはより硬いもの、大きなものを切るがこちらはよりソフトなもの、小さなものを切ることが多い。面白いかどうかに関しては、既に一作目の宿敵との恋愛まで昇華した友情や市のこれは後になって分かるが若くして達観し謎めいた雰囲気、それに伴う独特の作品世界などは失われているので、それを望むなら二作目以降は見る必要がなく、公開される時代を受け止め座頭市物語として昇華し、勝新太郎が座頭市を自分自身として再構築していく様を楽しめるなら以降続くシリーズも楽しめると思う。一作ごとの映画の作りとしてはプラグラムピクチャとして凄く楽しめる。外さないマンネリだろうか。
市の髪型はしばらく落ち着いている。

zatouichi06021200