沈黙 -サイレンス-を見たよ。

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沈黙 -サイレンス-(原題/Silence)(2016年 アメリカ 監督/マーティン・スコセッシ)
マーティン・スコセッシがなんとしても作りたい映画だったそうだ。
日本におけるキリスト教弾圧をモチーフにした映画。だからといって、単純にキリスト教弾圧の話とだけとらえる人もいるんだな。もったいない。というのが沈黙。実際に描かれているのはキリスト教の弾圧なのだからキリスト教の話ではあるが、それだけにこだわるのはもったいない。これは相対的にマイノリティになった人たちの物語だ。キリスト教は素晴らしい、弾圧する日本は悪い国だという事でもないです。日本統治を維持するために、キリスト教は邪魔になるということ。やっぱり悪か。いやいや、相対的なもので善か悪かじゃないんだよね。宣教師もキリスト教を全世界に根付かせたいという欲がある。この布教の面では疑問がある。仏教はいいのかと。もともと日本は神道だ。仏教はのちに輸入されたもので、ごく初期のころはやはり弾圧はあるもので、その辺りは手塚治虫の火の鳥で物語のモチーフの一つになっている(めんどくさい話だが、これが火の鳥の唯一のテーマでもモチーフでもなく、物語を描く上での一つのとっかかりだったということ。)で、現実では神社の前や周囲にお寺があることが良くあるが、それは仏も神のうちという認識にどうやってやったかは不明だが、そういうことになっているからでもある。麻生太郎ではないが、宣教師は仏教の手口を学べばよかったのに。それくらいにもキリスト教は一神教だったんだね。余裕が無い。
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ところが、沈黙では宣教師に発想の余裕がある。起きている事象としては全く余裕が無いが。なにせ拷問の連続であり、日本に来て日光に当たるのが一番の幸福と思えるくらいに辛い事ばかりだ。苦難ばかりしかやってこないと信仰はどこにあるのか、宣教師ですら疑問に思ってくる。
劇中の特に前半は宣教師のロドリゴもフェレイラもよく腹が減る。とにかく食えないのだ。そこで村の人に魚などもらうのだが、もうお祈り無しで貪り食っちゃう。キリスト教でもないこっちがジーザス!って言っちゃうよw。それを疑問の眼でみる村人たちとその目のおかげで食べている途中でお祈りをして再びがつがつ食べるロドリゴ達。そして疑う。そういう演出といえばそれまでだが、五島に行く船の中で、村人の動きに不安と疑念を持つ。皆信者なのに。このシーンはロドリゴの不安を疑念そのものを映像全体で表現していて、日本の映画の影響も大きい表現になっている。このシーンに登場する村人の表情が素晴らしい。無言でじっとしているだけで、言葉にならない情念、気持ちを表現している。あとから知ったのだが村人は三島ゆたかさんという方が演じていて、2シーンあるこの撮影に16時間かかったそうだ。

こういったメインのキャラクター以外のキャラクター造形まで作りこまれている印象がある。ロドリゴたちと対立するイッセー尾形さん演じる井上筑後守ももちろん、その横にいるおつきの人もきちんとした侍ではあるが、要領を得ない所謂ダメサラリーマン的な印象を出していて、僕の中では長い時間緊張感の続く物語の中で箸休めになった。 実はこの男を演じるのは知人で、当初エキストラとしての出演(役はもともと井上のおつきの人)から、最終的に役が付き、エンドロールでクレジットされるまでになった。登場した折にはやたらきょろきょろしているし、井上から受け取った水筒の扱いももたもたして、どうしてこんなことしてるんだと思ったが、これは全部演技プランで、そういう性格の人なんだね。その後も井上に叱責され、センスで叩かれる場面がある。このセンスで叩くこともポイントになっていて、これまで井上はハエを払うのにセンスを使っていた。おつきの侍を叱責する直前にもこれがあって、井上にとってはハエもおつきの侍も同列に扱っているのだ。ここに井上の人を見る視点が感じられた。他の人の感想で井上とおつきの侍との気持ちの距離を表しているのではないかというのもあった。井上とおつきの人は仲がいい、つまりじゃれ合っているような感じではないかと。これは僕は思わなかったので、なるほどと改めて思い返した。あ~、でもそれはヤンキー的な発想だなあ。何年も同じ仕事をしていると最初は違ってもその仕事の発想や性格になってしまうので、僕はかつては違ったかもしれないが、井上もおつきの侍もすでに役人のそれになっているのだと思う。
全体的には侍たちはすでにサラリーマン化というか、嫌な意味でのお役所仕事をしているように感じた。それはロドリゴの通辞もそうだし、井上も実はそうではないかと。弾圧であっても切支丹を殺したいわけではない、ただキリスト教を排除したいだけで、しかもそれは自分たちの仕事の一つに過ぎなく、その中にも思いはあって、出来るなら死は避けたい。そこまでの猶予は最大限残したい。そういうのは何度も出てきた。牢屋に入れられている間は切支丹たちはお祈りができるし懺悔もできるのだ。そんなんしてたら全然棄教なんてしないじゃんと思うんだが。
それでも踏み絵をし、棄教、転びを迫る。緩く、穏やかに。しかし拒否をする切支丹。なんだかぼそぼそっとしたやり取りの緩み切ったシーンが短くあり、直後一人の切支丹が斬首される。これが一瞬でこの映画の中で唯一の刀での殺人で、直接人が死ぬシーンだ。長く甘いシーンの次に対極の恐怖は大変効果的に酷く怖かった。冒頭から最後までこれだけ残酷な拷問があるのにどれも直接死んだところは描かれていない。殺すことが目的では無いからだ。ロドリゴが転びに追い込まれる穴吊りのシーンでさえ、死を描いていないのだ。

ロドリゴに対するユダと言われるキチジローがネズミ男のごとくしぶとい。物語中盤あたりだとまるでロドリゴの幻想のように見える。狡く卑怯で嘘つきで、生きることに執着するキチジローは嫌な奴だが、得体のしれない純粋さがある。踏み絵を何度も踏みまくる彼は、何と最後まで信仰を忘れないのだ。それが正しくあることなのか、清潔なことなのか、共感すべきなのか、答えが出しにくい。
井上も通辞も直接は描かれないが棄教している。もしかしたらすべての人々が一度は切支丹だったのかもしれない。それならばなぜ棄教の必要があるのか。なぜ弾圧を受けてまで切支丹であろうとするのか。この信仰とは単に無であるだけで、何もないんじゃないか。所詮共同の幻想ではないか、その幻想に振り回されているだけではないかと思うこともある。僕は信仰とは幻想だと思っていて、何も無いが、それを拠り所にすることで将来も含む見えないもの対する不安を多少でも解消できものなら、それはそれでいいんじゃないかと思っています。

そうそう、冒頭に中国が舞台になるのがいいと思った。日本との対比が見えて、きちんと日本を描くことをしてるんだなと。

一つ一つのシーンがのちのシーンにかかっている。そこに至る何気ない事の積み重ねをしっかり見ることだね。偶像を拠り所にする危険は最後までかかってくる。そういう意味でも十字架の行方に注目していると物語が読みやすくなると思う。一つの十字架が持ち主を変えることでなく、様々な十字架が意味を変えながら物語を表現している。

キャラクターも入れ替わり立ちかわり登場し、前半のキャラクターは後半殆ど登場しない。前半の主要キャラクターのモキチの塚本晋也さんは、シナリオを日本語にすることでも関わっているようです。後半に登場する、殆ど描かれない人が最後にいい仕事をする。最後の仕事でこれまで姿を少し見せる程度のことがすごく重く感じてくる。例えば真っ白な画面に黒い丸を描く。その丸があることでこれまでただ白い画面だったものが上下のある空間に見えてくる。全てを描き、説明するのではなく、今あることで過去の映像に意味を持たせていくのは時間軸の倒置法だなと思いまして。まぁ、それは井上筑後守にロドリゴが当てがわれた嫁なんですけど、彼女にあったのは信仰か、理解か、愛か、描かれてはいないですが、そのどれもであり、もしかしたら何も理解せずにただロドリゴに言われたからやっただけなのかもしれません。映画ですし、最後の重要なシーンなので意味はあるでしょうけどね。



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自分で編集している電子フリーペーパー北極大陸でも沈黙について話しました。
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