何度目かではない、聲の形を地上波で見た。

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聲の形 監督/山田尚子 2016年 日本
聲の形、大変良いと評判を聞いたのでネットとかで。勉強のために昨日地上波初登場だったので見た。感想は三十分くらいで見るのやめようと思いました。素晴らしい!素敵だ感動した!京都アニメーション最高だ!という感想を持つには僕は歳を取り過ぎたし、負け過ぎた。

僕の障害者の登場する映画ナンバーワンは座頭市物語及び、座頭市シリーズです。これを踏まえて感想以前に見ながら思った文句を言います。
京都アニメーションについては大変悲しい事件が起きたことは承知していますが、それと作品の良し悪しとは別です。
もう一つ、原作は知りません。映画だけ見て映画についての感想です。

小学生が中学生に見える。
デザイン事務所で働きはじめの頃、赤ちゃんを描けという指令が上司からありました。描いたところ「全然赤ちゃんに見えない」こうやって描くんだと上司が以前描いたものを見せられ、クライアントにも二つ並べて見せられて笑われました。その後僕はイラストを描かせてもらえませんでした。ちなみに上司の絵は昭和の高度成長期頃の絵柄で鈍臭くて古いのですが、紛れもなく赤ちゃんに見えます。だれも幼稚園児とは言わないと思います。ここがすごく大切です。オーダーは赤ちゃんの絵です。今風の上手い絵ではないのです。
そういったことで最初の小学生時代のシーンは全く小学生には見えません。どうだっていいじゃん、子どもみたいに見えればいいじゃん、ではないです。記号にするのは書きこみ過ぎているのです。
性別、年齢で顔の書き方、タッチを変えている点が僕の好みではありませんでした。自分の生活範囲にその年齢や性別の人が少ないか関心がない。自分で書き分けるための記号的なものを持ち合わせていないなど気になりました。

その割には背景や演出など情報量が少ない。
この映画はどう言うことかものすごく被写界深度が浅く描かれています。京都アニメーションは高い品質の作品を作ると聞きました。高い品質とはなにかわからないまま初めて京都アニメーションのアニメを見ました。女の子を上手に可愛く描くのは理解できましたが、同じ世界観とタッチで老若男女が描けているようには見えませんでした。さきほとの小学生が中学生に見えることに通じます。
話が逸れた。被写界深度が低いことでキャラクターに視点が集中します。しかしそのキャラクターはそんなに表情豊かでもないです。あくまでも記号的。不細工でデブの一人だけは顔を変形させることができるようで唯一アニメーションとして表情が豊かでした。しかし、他の人たちの表情があまり見えず、それは劇中の表現で殆どの登場人物の顔に×が付けられていることとは違います。表情がほとんど変わらないのです。変わって見えるときは声の演技によることが大きいです。
背景もあまり書き込まれていないもしくは書き込まなくても良い背景を選択しているのでかえってチカチカして見えました。もしや背景がボケているのは手を抜いているのでは?と勘ぐってしまいます。上手くやれば書き込まずとも情景を作ることは可能なので上手い人ほどできる高等技術でもあります。下手な人はやっても意味ないです。ただ空間が大きい背景でぼかしてあると(あれ?いつの間にか被写界深度って言わなくなってる)。上手ではあるが上手いとは思えないなあ。しかし、上手くなくても売れる映画や良い映画は作ることはできる。すでに僕はこの背景がボケているアニメというものを作っているのだ。予算は無しだ、同人アニメだったからな。クソ貧乏でも完成する方法を必死に考えたんだよ。
背景や全体の絵作りは密度が高いとは言えないのだと思いました。

キャラクターの動きが総じてゆっくり会話もゆっくり。
最近のアニメは戦闘シーンはめちゃくちゃ速いです。しかしミサイルはゆっくり飛ぶ。逆がいいなあと思っています。
めちゃくちゃ速くてドヤ!ってなってるのにこの映画では会話がゆっくりだ。話し方じゃない、セリフのやりとりがいちいちのんびりしているのだ。物語よりキャラクター性を重要視しているからだろうか。物事がちっとも進まない。動きもゆっくりしている。ことさら重要でもないカットでもスローがかかる。全体のテンポがゆっくりなのだ。大変じれったくて無駄に次の展開を予想してしまう。視聴者に余分な詮索をさせるのは良くないんじゃないかな。殆どの人はそんなふうには見ていないのだろう。この物語は次に何かあるかわからない話ではないし、わからずともいくつかの選択肢を棋士の如く予測することも問題なくできる。そういうきっかけが多いように思いました。
ゆっくりした会話がなにか物語を動かすかと言えばそうでもなく、物語はほとんど進まないし、問題は解決しない。耳が不自由な女の子の問題解決なのか、好きが高じていじめてしまった男の子のモラトリアムの回答が欲しいのかじれったい。
これに繋がることで、この映画には大人の男が登場しないです。小学校の担任などいるんですが、主人公らしき男の子に対する年長者がいないのです。父親も兄も隣のおじさんもいないのです。はっきり言ってこの映画で登場する問題は大人がいれば解決します。もしくはこの結末を予測できる賢さを持っている人がいれば。しかし大人の男性が登場しないのは描くのが面倒だったり、物事を解決する強力なポジションになってしまうからでしょう。描くのが面倒とは絵に描くという意味ではありません。性格などのキャラクター設計をすることです。この物語は問題解決を描くために意識的に意味や性格としての大人を出さないようにしているのではと思いました。自分がすでにその大人になってしまっていると、この映画を楽しむことは難しいのだなと感じたのです。

前提から離れても書いちゃう。
耳が聞こえないことはマクガフィンではないか?これが目がものすごく離れている、鼻毛が筆みたいにもっさり出ているとか、足首がものすごく太いでも、身体的なマイナスと思われるものがあれば良いのなら物語は成立するのではないか?
物語に感動するとかキャラクターに共感する前にあれこれ考えちゃう隙間があまりに多い。で、このようになりました。劇場(という映画)に続き、自分は顧客対象ではなかったなと。

静かなる決闘
座頭市物語(および座頭市シリーズ)
シェイプ・オブ・ウォーター
この三本を見てからでも良いかなと思いましたね。

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