『幼稚園バス運転手は幼女を殺したか』を読んだ。

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幼稚園バス運転手は幼女を殺したか
著者/小林 篤

2001年発行なので今となっては古い本になってしまった。足利事件の主に裁判を中心に追ったドキュメンタリーだ。あまり本を読まないので比較するものが少ない中の断定は良くないが、重厚で読み応えのある内容だと思う。
また、この本が書かれた時点では当時被告の冤罪が確定していない。だから題名が『幼稚園バス運転手は幼女を殺したか』なのだ。そして本の半分もかからないうちに著者は冤罪の可能性を持った文体になっている。かといって断定はしていない。内容も常に第三者の立場を貫いたものじゃないかと思う。取材はしていても特定の誰かと親しくなるほどに関わっていない感じがした。なので、文体も乾いた感じが真ん中あたりはする。最後の章の特に最後の方は全く逆で切ない。
実は読み進めることが苦痛に感じるほどに読みづらかった。その理由は本の外にあり、先に『殺人犯はそこにいる』(清水 潔 /著)を読んでしまっていたからだ。

『殺人犯は~』は足利事件について当時被告の冤罪が確定するまでが書かれていることと、事件を追う自分自身をある程度ドキュメンタリーの進行に使うことで読み進めやすくしている(が、それでもサクサク読めるわけじゃないよ)。つまり、途中まではすでに分かっていることをさらに細かく読むことになり(ってことは『殺人犯は~』はより詳細に書かれているってこと。)、同じ本を読む以上にまだるっこしかった。これは読む順番が悪かった。未読の方は『幼稚園バス運転手は幼女を殺したか』を読んでから『殺人犯はそこにいる』を読むといい。
同じ事件を違う視点で見つめる興味深さがある。
『殺人犯は~』は、元々冤罪事件ではなく、真犯人を探すことを前提にしている。そして被害者家族、目撃者の方たちへの直接取材をその内容だけでなく、取材自体をドキュメンタリーとして書かれている。(脱線だが、これがこの本の個性であり、Amazonプライムで配信していたチェイスというドラマが『殺人犯は~』を無断で引用しているのではないかと問われている。チェイスに関しては未解決事件をエンタメ的に扱ってしまったことも問題を感じる。これは個人的な感想ですけど。)
こちらだけ読むと、DNA型鑑定だけが冤罪を産んだポイントのように思われる。僕の読み方が浅いかもしれないのでそうじゃないかもしれない。『幼稚園バス~』を読むとDNA型鑑定以外の部分でも既に証拠の立証が怪しい部分があり、秘密の暴露も無い状態である。DNA型鑑定だけがことさら問題ではなく、捜査の前提から問題があると書かれている。それでもDNA型鑑定がほぼ初めて証拠として使われたこともあり、どちらもDNA型鑑定に関して多く頁数を使っている。『幼稚園バス~』はより詳細に書かれているので、本題から脱線しているようにも思えた。あ、勉強にはなるんだよ、ただ難しくて理解するまでが大変。
DNA型鑑定は当時は始まったばかりで精度も低く、研究者も少ない、試行錯誤の時だった。今のDNA型鑑定に対する比較的万能の印象からすると全く違う。それにも関わらず、なんだかわからんが凄い鑑定方法が表れたから盲信するように見えた。盲信してるのは警察や検察。DNA型鑑定に限らず、一度出た証拠に対して全く疑いを持たないんだよ。それがすごく不思議。

事件は連続誘拐殺人事件と冤罪事件の二つの側面を持つが、『殺人犯は~』の段階ではまだ連続誘拐殺人事件のみだ。冤罪は疑惑でしかない。この事件で冤罪(の疑惑)になってしまったのは、警察がストーリーを作ってから捜査をしており、そこに無理やりにでも当てはめられる容疑者が作られたこと、もう一つは当時被告だった方の性格というか考える能力の問題だ。
どちらも読み進めると当時被告の方の話し方話す内容が、悪い言い方だが賢いとは言い難い頭を抱えるような事態なのだ。特に『幼稚園バス~』ではその辺りが丁寧に書かれている。変な話、こんな人をどうやって擁護するのか、ここから冤罪を導き出せるの疑問に感じる下りもある。何しろ警察や弁護士、検察に裁判官などその人にとって都合の良く話を合わせ、自分がやっていない事もやっていると言ってしまう。求刑直前になって自分はやっていないと言う。受け答えもきちんと出来ない、この本を読んでいるだけでも所謂頭の弱い感じが伝わってくる。この人を信じ、弁護したり、ここに冤罪を見出すのは勇気と気力のいることだろう。弁護士の中にはかなりつらい状態の方もいたと見受けられる。これを逆手に取ったのが警察と検察だ。特に警察。この本を読む限りでは明らかに揺らぐ自供や勝手に決めつけた証拠めいたもの(証拠ではない)を全く疑わないのだ。この痛ましい事件の内容を無視して自分たちのメンツのために事件に関わているのだ。この事件に限らず、殆どの場合は最初に警察が作った仮定を大前提に捜査が進められる。冤罪であるかどうか関係ないのだ。容疑者らしき人を作って仮定をストーリーとして完成させればいいのだ。そのためには今回の当時容疑者とされた方は、精神的にも弱く、正直賢いとも言いづらいことを都合よく利用されたのだ。

どちらのドキュメンタリーも最終章は少し本筋から外れたことが書かれている。それは物事が本来の意味で解決していないこと、その解決の道筋を見つけているのに実現されない悔しさからかと思った。

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