何度目かではない、沈黙 SILENCEを見た。

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沈黙 SILENCE(1971年 日本 監督/篠田正浩)

オチが何だこりゃ感で充満する。ロドリゴが自暴自棄で女を抱いて、その後日本名に改名したで終わったら全然ダメだろw 原作もそうなのか? それを丹波哲郎演じるフェレイラがのぞき窓から黙ってい見ているって、東映の時代劇みたいじゃないか。
三田と岩下はできれば無しの方向が良かったなあ。特に三田のシーンは無くてもいいんじゃないか?このシーンも東映の時代劇みたいだった。

スコセッシ版の日本人英語上手すぎ問題は、篠田版ではロドリゴ日本語出来すぎ問題になっていた。あと丹波w いい味出してるが、丹波がこの役ならロドリゴも濃い顔の日本人がやってもいいんじゃないか。
丹波、説明しすぎ問題。何しろ言葉で説明しすぎ。予算が無かったのか、ナレーションで処理してる部分も多い。そういったシーンをスコセッシ版は絵で表現しているところが多い。冒頭の部分は特にそうだ。拷問シーンもほぼセリフで説明している。これが情緒的で個人的には好きじゃない。ねちっこさはあるが恐怖は無い。スコセッシ版はこれを一瞬の斬首で表現している。

ロドリゴとキチジローの距離感も希薄。キチジローが活きてないじゃん。それぞれのキャラクターが分断されていて、一人づつは描いていてもロドリゴの沈黙に対して集中していく感じはない。沈黙という事に対してもフェレイラからロドリゴに説教のように説明される。

スコセッシ版では、奉行などは宗教に関してだけ厳しいが、篠田版では年貢などの面でも圧政を敷いているようだった。前半だけだと悪い人のように見える。後半も印象はあまり変化ないが。
井上が棄教したことは説明しない方が良かったなあ。常に左手首をさすっているのは井上も拷問を受けた可能性を示唆させるが、そこから読み取るまでにとどめて十分かと思いました。

キリストの人って懺悔をしたいらしく、他の映画でも教会で懺悔をさせてくれとしつこく迫る場面を何度か見た。救いはそこにあるかのように。篠田版だと全然懺悔しない。とにかくごめんなさーい!みたいなことは言うが、懺悔の行為はしない。ロドリゴも懺悔を聞く姿勢は見せない。僕自身キリシタンじゃないので信者が信仰に対してどのような行動をするのか実感がない。でも、懺悔というのはキリスト教では重要な行為に思えるんだけど、どうなのかな。

スコセッシ版だと炭焼き小屋に籠っているシーンにあたるところは緊迫感が感じられなかった。あんなに遠くから叫んだら見つかっちゃうじゃんw
のどが渇く、って言ってるのに、場面は海岸でやたら水が画面に登場する。そこは画面からの水分を消すべきじゃないのか?スコセッシ版だとキチジローが目の前で汲んできた水筒を壊すまでして画面から水を消している。
篠田版では切支丹は独自に頑張り過ぎていて宣教師は要らないくらいになっていた。スコセッシ版では懺悔も、洗礼も出来ないので、宣教師に対する飢餓感が強烈に描かれていた。ある意味一つずつの事を丁寧に表現している。映像全部で伝えたいことを表現していると感じた。

スコセッシ版がなかったら、篠田版はこれでよかったかもしれないし、スコセッシ版が無かったら、注目されることは無かっただろうな。
沈黙という作品を研究するなら篠田版は欠かせないと思もうが、どちらか選ぶとなると、スコセッシ版をお勧めする。まぁ、篠田版はなかなか売ってないし、劇場でもかからないし。IT革命で見れるがなw

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